137)やるせない気持ち
「代替医療と洗脳」で紹介した知人が鬼籍に入った。既に緩和医療に入っていることは知っていたし、SNSの更新もまばらであった。それでも元気に過ごしているのだろう、と思っていた。だが、実は既に(!)亡くなっていたのだ。その事実は、SNSの誕生日メッセージとして送れられたコメントから偶然に知ることができた。そして、書かれた内容から、それが最近の話でないことも感じとれた。長い闘病生活の中で、様々な人に勇気を与えた知人にご冥福を祈ります。
代替医療を勧めた倫理法人会のメンバーや元交際相手、そして代替医療を施した船戸崇史は、何か言うことがあるのではないか。
こいつらは、人の命をなんとも思っていない。さしずめ弱者やバカからは金や命を搾り取ってもよい、とでも考えているのだろう。その結果、人が死のうがどうでもよいのだ(自己責任といいはる)。その免罪符として、金を寄付するなり社会的な還元をすれば、みなそれで満足するのだから(これは、ジジェクのいうリベラル・コミュニストだ。資本家はその利益を社会に還元することで、強引な資本拡大の免罪符として機能させる)。
人が死ぬのは仕方がない。だが、人はいつ死ぬか分からないからこそ、前を向いて生きていけるのだろう。その希望を消費させることは、余命宣告という死の期限、つまり絶望を現前させる行為にほかならない。知人は、緩和医療に入ったことを受け入れるのに半年近くかかったと書いていた。この発言は、代替医療による治療を後悔していたということだろう。無念だったに違いない。
次にあげる論文は、ガン治療の補完代替医療の死亡リスクについて検討したものだ。「補完医療を受けるがん患者は通常治療を拒否する傾向、死亡リスクも2倍」。この表題からも分かる通り、代替医療は通常医療と比較して死亡リスクが2倍になっている。これに対し連中は、代替医療を選択したのは本人の意思決定によるものだ(あるいは陰謀)、などとぬかすのだろうが、それは見かけ上であり、そう仕向けたところによるものが大きいだろう。
だが、代替医療が台頭する原因として、医師が患者に寄り添っていない現実も無視できないだろう。お年寄りの詐欺被害に関して、加害者が自分に寄り添ってくれたから信じてしまった、という話を聞く。詐欺と代替医療を同列に語るのはフェアじゃないかも知れないが、不信感や孤独感といった心の隙間を突いて信頼関係を築く点では同じである。これは、社会が弱者に寄り添えていない、ということの裏返しである。この社会的な欠陥を自己責任として切り捨てるのが、いまの日本である。
2020-10-04