48) 国語から消える文学
伊藤氏貴さん(明治大学准教授)によれば、国語教育に二つの改革が行われるそうです。一つは大学入試改革に伴う記述問題の追加、他方は高校の学習指導要領の改定で、それぞれ次のようなものです。
まず、大学入試で追加となる記述問題は、駐車場の契約書や交通事故発生件数のグラフを見て問いに答えるというもの。次に、高校の学習指導要領の改定では「国語総合」の時間が半減され、先述した契約書やグラフの読み方といった「実用文」を学ぶというものです。つまり、国語教育においては、役に立つか分からない文学なんかより、社会で活用可能な実用文が(も)重要だというのです。
この話題はTwitterで知りました。初出は伊藤氏貴「高校国語から「文学」が消える」『文藝春秋』2018年11月号のようです。また、Googleの検索にかけてみると、現代ビジネス(講談社)のサイトで、同じく伊藤氏貴さんが寄稿した、「国語の大学入試問題が、来年からトンデモないことになる予感」という記事もヒットします。
この問題をうけてTwitter上では、「古典文学(=小説)を読めない(に出会わない)のは損失だ」という意見が多く見受けられました。しかし僕はそうは考えていません。古典文学(や小説だけが文学ではない)が読めなくなることが問題ではなく、形而上学的な思惟を放棄させるところに問題があると思っているからです。そして、もし国語教育が文学に唯一の真理(イデア)を要請するのであれば、文学から実用文にシフトしても良いのではないかと考えています。いや、その教育の理不尽が批評の原動力となる可能性もあるので、やっぱだめです。
日本は、異常なまでに実用性を要求していると感じます。それが如何に実用的であるかを問う、つまり社会への還元可能性がその研究の是非を決定している。こんなもんを論ずるのもアホらしいですが、国家的な視座に立脚すれば、この印象づけは非常に有効でしょう。なんせ国民がバカであればバカであるほど都合が良い訳ですから。
さて、学校教育の根幹をなすものの一つに、デューイの〈プラグマティズム〉があげられます。〈プラグマティズム〉とは、「役立つものはすべて真理である」というものです。つまり実用可能性があればそれは真理である、という考えです。しかし、教育現場では目先の損得を基準としている可能性が高いでしょう。実用可能性を決定するのは一体誰なのだろうか。
第九次学習指導要領のテーマは「アクティブ・ラーニング」ですが、私たちが要請するのは子供たちにではなく、役人たちにでしょう。
2018-11-02