34)奥能登国際芸術祭の感想(1)
そろそろ奥能登国際芸術祭の感想を書いても良い時期かなと思います。当芸術祭については、以前の記事「(6)奥能登国際芸術祭へ」を参照ください。朝日新聞DIGITALによれば、奥能登国際芸術祭の来場者は、7万1000人で、目標の2倍超です。当芸術祭は、会期中から大変評判が良く、ネットでは絶賛する声も多く、成功を収めた芸術祭の一つという評価を得ていると思います。しかし、僕は当芸術祭に触れてみて色々と思うことがありました。その中から、地域と芸術の関係性に焦点を当てた二点を、今回と次回のブログで述べていきます。それは、芸術を利用した「搾取構造」と「政治装置としての作品」についてです。
芸術祭のように、地域でアートを展開して社会に変革を起こそうとするものを、「リレーショナル・アート」、「コミュニティー・アート」、最近では「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」などといいます(ここでは同一とする)。それぞれ意味は多少異なりますが、いずれも地域や市民、ボランティアと一体となって芸術を作り上げるものです。その最大の特徴は、物質的な作品だけを芸術とするのではなく、芸術(活動)を媒体として生み出される、リレーションやコミュニティなど、非物質的なものも芸術とするところにあります(デモ活動や選挙を芸術だとする人は、このような考えに近いと思います)。当芸術祭でも、サポーターという名称で、ボランティアを募り、アーティストと共に作品を作ったり、運営の一員となって芸術祭を運営したりします。まさに、先述したリレーショナル・アートそのものです。しかし、視点を変えてみれば、ボランティアありきで予算が組まれたアート・プロジェクトとも言えます。
さて、このボランティアの構造には大きな問題があります。それは、当芸術祭において、予算を組まれた(と思われる)招聘作家とそうでない作家(少額/自腹)の差が、作品に顕著に表れていた点です。予算がない作家は、無料の労働力であるボランティアに援助してもらわなければ作品を完成させることはできません。他方、ボランティアは対価として、作家や地域とのリレーションやコミュニティを獲得します。しかし。これはリレーショナル・アートという大義名分の下、「やりがい搾取」を行っているだけともいえるでしょう(労働力を搾取しないと成立しないプロジェクトって、常識で考えておかしいでしょう)。ここで注意が必要なのは、搾取をしているのは作家ではなく、もっと上の連中だと言うことです。作家は体のいい搾取のための媒体にしか過ぎません。このように見ると、搾取/消費されているのはボランティアのみならず、作家までをも含んでいるという見方もでてきます。
はっきりといいます。こういう人の善意(や承認欲求)を利用した搾取はすげー気分が悪くなる。詳細は後述(次回)しますが、芸術祭は搾取を容認した公共事業といっても差し支えはない。
つづく
2018-07-04