35)奥能登国際芸術祭の感想(2)
「アート」を定義することは中々難しいと思います。なぜなら、アートは制度や体制といった枠組みを常に破壊してきたからです。つまり、固定した定義を与えたところで、アートはそれを簡単に超えてくるところに、定義付けが困難な理由があります。しかし、アートをその特性(既存の枠組みを超える)から定義を考察することは可能だと思います。
僕がアートの定義を、特性から考えるならば、「技術や制度など既存の枠組を超え、創作(活動・作品)を媒体として表象するもの。」のようになります(芸術学や美学を学んだ人からすると、何いってんだ、と思うのかも知れませんが)。表象という言葉が曖昧ですが、心の中に現れたイメージ、程度で使っています。
しかし、この枠組を超えれなくするものがあります。それが「検閲」です。検閲と聞くと、政府といった外部団体が行うというイメージがあります。しかし、必ずしもそうではなく、内部(自己)に行う検閲、すなわち内在化された検閲が存在します。
内在化された検閲とは、外部による検閲の反対に、自主規制のように内面(限定された範囲)で生まれる検閲のことです。内在化された検閲は、必ずしも意識的に行っているだけではなく、同調圧力や場の空気感など、無意識に行っている場合もあると思います。
さて、奥能登国際芸術祭では、「さいはての」「忘れられた日本」をテーマに、39組のアーティストが作品を創作し展示されました。テーマを具体的なものに言い換えるならば、「奥能登の魅力」とでもなるでしょうか。このテーマに内在化された検閲が働いていたと考えています。
すべての展示作品を鑑賞した僕の感想ですが、大半の作品は、奥能登の風土から美しい景観をフレーミングしたり、奥能登の風習や歴史を美的に、またノスタルジックに思い起こさせたりするものでした。しかし奥能登には、ゴミが散乱する海、限界集落、密入国問題など、決して美しいとは言えない現実や問題があるはずです。作家はそのような現実を美的なもので覆いかぶせています。なぜでしょうか? その理由は地域アートの目的にあります。
つづく
2018-07-17