281)科学的という免罪符
汚染水放出以後、ネトウヨ界隈で〝科学的/非科学的〟という言葉が跋扈している。それは、「処理水(=汚染水)の海洋放出は科学的に安全が証明されており、積極的に放出すべきである」という文脈で使われている。このような考えに、大学教授や博士課程の学生も積極的に参加している。自民の風評被害対策800億の先なのだろうか。
彼らの言う〝科学的〟とはなんなのだろうか。この議論は省略され、その向こう側で勝手に議論が進んでいるように感じる。察するにネトウヨの科学的とは、一意なものかつ与党(自民・統一教会)の声明なのだろう。そして、それに反抗するものはみな非科学的なのだ。したがって、「海洋放出になぜ〝賛成〟するのか?」と言えば、それは与党である自民党が決めたから、つまり〝科学的〟に正しいからである。
ここでぼくが思う〝科学的〟について述べたい。科学的とは、再帰的にある事象やその検証を疑う姿勢を指す。つまり、論理的に正しくても物理学的に誤りだったり、医学的に正しくても倫理的に誤っていたりすることを明らかにすることだ。以上から、非科学的とは前述した「疑う」という科学的な態度を放棄することの他ならない。汚染水の海洋放棄を科学的に安全だから、といっている連中こそが非科学的なのだ。
しかし、汚染水の海洋放出の問題は単に科学的か否かという単純な話ではない。科学的は、意思決定に関わる一つの要素にしか過ぎず、そこに政治・経済・感情など多数の要素が混合するからだ。集合の項は限りなく増え、極めて複雑なものになっていく。そして、その複雑なものを科学的な態度をもって意思決定しなればならないのだ。
意思決定において〝科学的に正しい〟と〝科学的に誤っている〟は非対称な関係性を持つ。〝科学的な誤り〟は、候補から外すという選択に収斂するが〝科学的な正しさ〟には無数の選択肢があり、その可能性の中からさらに論理的かつ倫理的または合理的、そして人間の感情を考慮した上で判断する必要があるからだ。つまり、ある事象が科学的に正しいとしても、それは質を保証するものではなく、より質がよいものが無いかを探し検討するべきで、それが科学である。
今回の汚染水の海洋放出で、ネトウヨは科学的というお墨付きがあれば何をしてもよい、と考えているのが明らかになった。アグニューのベトナム戦争で核爆弾を使えばすぐに戦争を終結できたこと、ナチスの遺伝する障がいや病気を持っている人が子孫を残せないよう断種し優秀な人間のみを繁栄させること、といったことを平気で実行しそうな勢いである。
追記(2023-09-05):「トリチウムなんてものは全く出ていませんとはっきりしていてもだめなんだから。」なんていってる非科学的なアホがいた。科学を語るネトウヨくんは、ぜひとも〝科学的〟とはなんたるかを指導していただきたい。そのアホを麻生太郎という。
2023-09-01