236)見捨てられた図書館司書
「手取り9万8千円で働く「図書館司書」の悲痛な叫び」(東洋経済ONLINE、2022年9月29日)を読んだ。ここに書かれていることはその通りだと思う。しかし、ここに書かれていない別の要因もあるのではないか、とも感じる。それは、大学教員となった過去の司書が自身の保身に走るあまり未来の司書を守らなかった、というものである。
以下はお蔵入りにしていた文章で、通信大学で司書課程を学んでいた時の話です。ここで登場する司書とは、大学教員としての司書を指しています。決して、現場で働いている司書のことではありません。なお、司書課程は、途中で勉強するのがアホらしくなってやめました。
司書の授業は、権威・エリート主義の塊だった。自身を教養のあるエリートと思い込むため、そして何よりも自身の地位を守るために、後の世代をその養分にしてしていた。その結果は、現在の司書の厳しさとして表れている。
司書課程で学ぶことは、主に司書や図書館の素晴らしさについてである。たとえば、司書は専門知を持っており、司書がいなければ数々の論文が作られなかったこと、図書館は民主主義の尺度を測るものさしであり、それは都市計画の上で街の中心に添えるべき重要な施設であること、などである。もちろん、そういった側面がないとは言わない。しかし、実態は個人情報を軽率に警察に流したり(岡崎市立中央図書館事件)、思想の異なる本を勝手に除籍したりしていたから説得力がない(船橋市西図書館蔵書破棄事件)。
ついで、司書教員は情報技術に一家言あるようだが、悲しいほど理解していなかった。たとえば、レポートでf(x) = a * (x ** 2) + (c / 2)
と書くと、全角文字(!)に訂正される。また、事あるごとにデータベースが登場するが、データベースの立ち上げ方、たとえば$ mysql.server start
を知らないのはいいとしても、SQL文を理解してなかった。これは流石にまずいのではないか。
そして、司書課程の中で印象的だったのが「論理差」という用語である。論理和の逆だから、排他的論理和あたりかと考えたが違った。これは、2つの要素A、Bにおいて、要素が重なった部分(積)を含めたBの要素を排除することを指す。つまり、否定論理和のことである。しかし、否定論理和という用語を使うと、どうも意味が違うらしく訂正される。ぼくは、和/差、積/商、微分/積分がそれぞれ逆算の関係だと認識していたのでとても新鮮だった。
なんだか愚痴を書き散らしてしまった。何が言いたかったかというと、本来ならば司書を守るべき立場にある人が、司書(自ら)をすごく見せることに執着しているのではないか、ということである。今風に言えば、ポジショントークだろうか。一方で、リファレンスサービスが誰にでもできる仕事でないことは確かである。しかし、それはどの仕事にも通ずることである。このようなところからも自己保身が透けて見える。
2022-10-04