223)当たり前にできること
当たり前に英語が話せる、当たり前にピアノが弾ける、当たり前に絵が描ける。この「当たり前」という感覚がいまいち分からなかった。もちろん、世界に目を向ければ、当たり前にご飯が食べられる、というのもあるんだろうけど、周りの人と比較した時に少し特殊に感じるような能力についての話をしたい。
その当たり前にできる、という感覚が30代半ばになって分かってきた。具体的には、コンピュータを組み立てたり、欲しいと思ったプログラムを書いたりすることだ(悲しいが作曲ではない)。ぼくにとってこれらは無勉強とまではいかなくても、あまり多くない勉強でできてしまう。きっとこれが、当たり前にできる、という感覚なのだろう。そして、それは環境によって与えられたものである、ということも同時に実感する。
ぼくが当たり前のようにコンピュータを触れるのは、偶然幼い頃からコンピュータに触れられる環境にいて、偶然コンピュータの発達と共に育つことできたにすぎない。何が言いたいかというと、当たり前にできるという能力は、人間関係や世代・時代といった環境によって作り上げられた所産でしかない、ということだ。それを理解せずに「あたりまえ」を他人に押しけるのはどうかと思う。
なんでこんなことを書いたかというと、最近の学生が書いたプログラムを眺めていて、なんでちゃんと勉強して書かないんだろう、なんて思ってしまったけど、そもそもぼくと環境が違うからだ、ということに気がついたからだ。大学に入ってから、既に構築されたコンピュータを使って、python3やjuliaのようなモダンなスクリプト言語をその場限りで触るので、基礎的な知識や技能といったものが身に付きづらいのだろう。
2022-06-23