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金沢音楽制作

金沢音楽制作では、楽曲・楽譜の制作と、作曲や写譜などレッスンを行っています。


73)デカダンな廃墟を超えて

このブログは、ジンメルのエッセイである「廃墟」(『ジンメル著作集7――文化の哲学』、白水社、1976年)を読んで、「俺もそう思ってたんだよ!」という感情をもって書いたものだ。そして、元々軽い気持ちで書こうと思っていた廃墟サイトネタと相まって、長い記事になってしまった。そこで先に結論を述べておきます。すなわち、廃墟をみることで感受される美といった感情は、人の作品であるモノの側だけではなく、それを侵食していく自然の作用の側にもある。つまり、人の作品と自然の作用の対峙にこそ美が見いだされる。それでは、なぜ自分がそう考えたのかを見ていこう。

2004年頃、インターネット上に「廃墟サイト」なるものがあることを知った。廃墟サイトとは、全国に点在する廃墟の写真や情報を載せた個人サイトのことだ。廃墟サイトは豊富にあり、有名な廃墟を中心に紹介するもの、北陸といったローカルな廃墟に限定して紹介するもの、はたまた旅行記のようなものまで多種多様であり、まさに廃墟ブームの渦中といった感じだ。

廃墟サイトには、お約束の掲示板が設置してあり、盛んに情報が交換されていた。そこで連絡を取り合って廃墟探索に行く、といったことも珍しくはなかった。つまり、誰でも簡単に廃墟へのアクセスを入手できたのである。このように、廃墟にただならぬものを感じていたぼくは、廃墟サイトを夢中になって閲覧したものだ。(携帯電話の高性能化と廃墟ブームは無関係ではないだろう。携帯電話に、高画質のカメラが内蔵され、通信システムも高速な3Gに移行したことで、リアルタイムでの報告(実況)が可能となったからだ。)

前置きが長くなったが、ぼくはなぜ廃墟を求めたのだろうか、これが問題だ。廃墟をみることで、かつての栄枯盛衰に思いを馳せ、哀愁や郷愁に耽りたかった、ということだけではないだろう。ぼくは、廃墟に美を感じていたし、また強く求めていたからだ。ならば、廃墟から感じていた「ただならぬもの」の正体は「美」ということになろう。しかし、その美は一体何であろうか。そして、それは廃墟ではないものからでは感じないのだろうか。だとすれば、廃墟と廃墟ではないものを分け隔てているものは一体何なのだろうか、これらを一つずつ明らかにしていくことで、その美の正体に接近できるはずである。そこで、論を進めるために廃墟ではないものを「空家」という語に仮に定義する。

ぼくが廃墟的なものを意識しだしたのは、廃墟サイトを知るよりもずっと以前、子供の頃である。その源流に手引きしてくれたのが、2002年に放映された二階堂酒造のテレビCM『「父」篇』に表れた「志免鉱業所竪坑櫓」(福岡県にある国の重要文化財)である。志免鉱業所竪坑櫓は、高さが47.6mあり、上部が立方体でありながら不自然に突出させた長方形の空間を持ち、それを下部で細い骨のような支柱で支えた、幾何学的であるが不均等な造形をしている。ぼくはこれを見たとき憂いを帯びた、しかしどこか非日常的で美しいと思う感情が生まれたことを記憶している。そしてそれと同時に、以前にもこのようなものを見たことがある、という記憶が呼び起こされた。

志免鉱業所竪坑櫓の知覚がぼくの記憶から呼び起こしたのは、美川町にかつて存在した巨大な給水塔「アクアタワー」であった(2009年に老朽化のため解体)。アクアタワーは、高さが33mあり、形状は円錐台の上部に底面よりも大きな円柱が配置された輪郭が角張ったこけしのようなものだ。子供の頃のぼくは、日常の風景の中に突然現れるアクアタワーに、やはり廃墟と同じくただならぬものを感じていた。しかし、そのただならぬもの正体は、無機質で単純な造形であるにもかかわらず、圧倒的に巨大で非日常的かつ暴力的な感情であり、廃墟から感じる美とは程遠いものであった。したがって、アクアタワーが志免鉱業所竪坑櫓と決定的に異なるのは、そこに美を感じることはなかった、ということである。この差異こそが、廃墟と空家を分ける示唆となるはずだ。

廃墟と空家の違いを考えよう。まず、共通項として人工物であることがわかる。どちらも人の作品であることから異論はないと思う。次いで、その差異に着目すると、管理の有無があげられるだろう。つまり、空家は人によって保存・管理されているが、廃墟は人による管理から放棄され、後は朽ち果てるのを待つだけである。だが、こうしてみると廃墟と空家の違いは、管理が放棄されるまでの段階的なもので、対立するものではないことが分かる。ならば、それは人が作った作品をどの段階で保存・管理するか、という意思決定の問題でもあることが前景化してくる。すなわち、空家から廃墟への段階は不可逆的なものではなく、廃墟を再び管理することも可能であるということである。したがって、廃墟かつ空家である、という状態も十分に考えられるのだ。たとえば、志免鉱業所竪坑櫓はまさに廃墟であると同時に国よって管理されたものであるのだ。こうなると、前述した空家の定義を撤回する必要がありそうだ。そして、美を感じるにはやはり「廃墟」という要素が必要不可欠であるように思われる。

しかしである、あらゆるすべての廃墟に美を感じるか、と聞かれればそんなことはない。たとえば、人によって荒らされた廃墟や風化を感じられない廃墟から美を感じたことはない。つまり、同じ廃墟であっても、人によって破壊されたものからは美は感じず、一方で自然に朽ちたものからであれば美を感じる、ということである。だとすれば、「自然に朽ちる」とはどういうことかを明らかにすることで、廃墟がもつ美の正体に到達できるはずである。さて、自然に朽ちるとは、つまるところ「自然の作用」ということであろう。自然の作用とは、ある物質が風化したり植物に侵食されるといったもので、人による落書きや放火といった破壊(ヴァンダリズム)と対立するものである。そして、廃墟における自然の作用は、人が作った作品と自然の作用との対峙であり、それは決して互いを排斥するものではなく、人の作品が自然の中に編入されていく過程でもあるだろう。

最後に再びアクアタワーと志免鉱業所竪坑櫓に焦点を当ててまとめよう。これまでの論点に立脚すれば、アクアタワーは空家で、志免鉱業所竪坑櫓は廃墟であり、その分水嶺は管理の有無であるとしてきた。しかし、ここに大きな勘違いがあったのだ。「管理」とは何も復旧だけを目的にしているわけではなく、人のよる破壊から守るという目的もあった、ということである。たしかに、志免鉱業所竪坑櫓は廃墟でありながら、重要文化財として管理されている。だが、それにも関わらず美を感じたのは、管理の有無ではなく、人が作った作品に自然の作用が働いているか否かであるからだ。したがって、廃墟の美とは、人が作った作品が管理を離れ、そして朽ち廃れていくさまに向けたものではない。むしろ、自然が人が作った作品を侵食していくところに美を感じたのである。人の作品と自然の作用の対立の均衡が、その美を感じさせるのだ。そして、ヴァンダリズムは、その均衡に水を指し破壊することの他ならないのである。

2019年現在、改めて廃墟サイトにアクセスしてみると、その大半が消滅していた。存在しているサイトもあったがその殆どは更新を停止している。つまり、廃墟ブームはとっくに終焉を迎えてたのである。その理由は至って簡単だ。それは、前述したヴァンダリズムが横行し、人間の作品と自然の作用との対峙という廃墟がもつ特質を破壊したからである。そして、そのヴァンダリズムを推し進めたものこそが、廃墟サイトであった。その存在が、廃墟ブームを牽引したと同時に引導を渡すことになったのは、皮肉以外の何者でもないだろう。

追記(19/06/21):本屋に置いてある廃墟本といえば写真集と相場が決まっているが、廃墟「論」に焦点を当てたものもいくつかあるようなので紹介したい。なお、いずれも未読なので、もしかしたら想像した内容と大きく乖離している可能性がある。もし気になった場合は、事前に図書館等で調べてから購入して欲しい。

2019-06-15