このぺージで使われている「テクスト」と「コンテクスト」という言葉は、山口修さんが使う言葉を、筆者が解釈したものです。文学の「テクスト理論」求めているのであれば、バルトやクリステヴァを読むことをおすすめします。
あらためて読むと、全く約に立たないし、そもそも文章力がなさすぎて何を言ってるのか全く分からないです。内容もテクスト理論…… うーん、という感じです。本文の修正と追記をしましたが、ぼくは文学は専門じゃないのでこれが正しい認識なのかわかりません(2020年8月7日)。
音楽テクストとコンテクスト
テキスト/コンテクストという言葉は、批評といった文学でよく耳にする言葉である。その考え方は、批評にとどまらず、音楽や美術など様々な分野で活用することができるだろう。まず、テクストとコンテクストについて説明する。つぎに、テクストを実例と照らし合わせて考察する。そして、山口修が提唱する、テクストはそのままに、コンテクストのみが変化する脈絡変換理論についてのべたい。
テクストとコンテクスト
テクスト(text)、そしてコンテクスト(context)は、主として文学で使われる言葉である。まずはこの二つの用語を簡単に解説しよう(どちらもフランス語である。テクスト理論といえば、一般的にロラン・バルト(1915-80)が想起される)。
テクストとは、人間が意図的に織り上げたモノを指す概念である。なんだか分かりにくいが、音楽でいえば、人の意思による音の集合を指す。つまり、目の前にある純粋な「作品」そのもの、という認識で問題ないだろう。そこに作者は、またその制作意図は、などといった作品の外部の情報は含まれないのだ。別の言い方をすれば、作品が作者の手から離れた、解釈(批評)の対象とこそが「テクスト」と言えるだろう。ということは、作者もまた一つのテクストといえるだろう。
次に、コンテクストとは、そのテクストを支える背景(文脈・脈絡)である。音楽でいえば、使用楽器は、演奏者は、演奏場所は、演奏日時は、などである。静的なテクストに対して、コンテクストは動的に変化するものである。また、コンテクストはテクストを内包する関係をもつ。つまり、テクストは、コンテクストを継承するが、その逆の汎化は成立しないので偽となる。
追記:この説明は、テクスト理論の範囲なのだろうか。むしろ、オースティンの『言語と行為』(1962)に代表される語用論ではないのか。
音楽の場と脈絡
テクストとコンテクストは、一見すると不分離に感じるかもしれない。例えば、ピカソがスペインの内戦を描いた『ゲルニカ』(1937)は、から作者や表題、意図、象徴、といったコンテンクスを全て削ぎ落として、眼前にある作品、つまりテクストを観察し検討するのだ。これがテクスト理論である。
さて、私たちは、普段さまざまな音楽を耳にしている。その代表な音楽ジャンルである、ホピュラー音楽やクラシック音楽には、民族音楽をルーツに持った楽曲がある。たとえば、バルトーク(1881-1945)や、ライ・クーダー(1947-)たちである。それらの音楽は、本来の「場」が持つ脈絡(コンテクスト)から切り離された「響き」(テクスト)であることを知らなければならない。音楽の「響き」「場」とはなんなのか。そして人間と音楽の関係についてみていこう。
場と脈絡の関係から脈絡変換へ
日本で、癒しの音楽としてグレゴリオ聖歌があげられることがある。だが、グレゴリオ聖歌は、本来ローマ・カトリック教会の聖務日課やミサなど、伝統的な「場」で歌われるものである。それを現代の日本では、グレゴリオ聖歌の持つ「響き」だけを切り取って「癒し」と結び付けた例である。
追記:単なる印象批評にも思う。印象批評とは、ある作品から意図や意味を見出す批評である。たとえば、「この絵は、キリストの苦難と試練を表している」「この音は、運命の扉を叩く音だ」というものである。
それでは「音楽の場」について、私の体験談からみていこう。親戚の葬儀に参加した時の事である。葬儀は仏教系の施設で行われたにもかかわらず、バッハの《G線上のアリア》、ベートーヴェンの《悲愴》、バーバーの《アダージョ》など、悲しげな雰囲気のある音楽が流れていたのである。もの哀しげな音楽をBGMとして流す事で、感傷的な雰囲気を演出するのだ。そして、これらのBGMは日本のお葬式で流す定番曲となっており、実際に、『お弔い・お別れの会 BGM ベスト』というCDも発売されているほどだ。この事例では、西洋のクラシック音楽が、本来とは異なった「新しい音楽の場」を日本で獲得していると言えるだろう。この事例は、その音楽が持つ本来のコンテクストから切り離され、葬儀という新しい「音楽の場」に、「響き」が持ち込まれた一例である。類似することだと、手品の時に流れるポール・モーリアの《オリーブの首飾り》もそうだろう。
追記:新しい意味を固定することがテクスト論ではない。むしろ、意味の決定不能性による多様性こそがテクスト論の主題であろう。
では、これらと人間との関わりを見えてみよう。グレゴリオ聖歌は人が神に祈りを捧げる空間に音響を与える。また、葬儀のBGMは人々に哀惜や感傷を演出する。つまり、テクストと人間を結びつけ、かつ音楽の意味を決定する重要な要素として、「場」があげられるだろう。たとえば、聖務日課といった場もコンテクストといえるのだ。つまり、テクストを場から切り離し、別の場(コンテクスト)に結び付けることができる。音楽学者の山口修は、これを「脈絡変換」と名付けている。この脈絡変換について詳しく見ていこう。
追記:これは単なる記号論の言葉(像)と概念(意味)を結びつける、意味作用ではないのか。後述する脈絡変換は、まさにそうではないのか。山口氏のテクスト論は、バルトらのテクスト理論というよりも、記号論の話かもしれない。そもそも山口氏が、どの程度テクスト理論もとい構造主義に造詣があったのか不明である。まあ、ぼくよりは詳しいでしょうが。
脈絡変換理論
山口は、脈絡変換という概念を提唱している。山口は『応用音楽学』(2000)で次のように述べている。「テクストとしての音楽が伝承され伝播してゆくとき、コンテクストが大なり小なり変化するのが必然である。その過程と結果をtranscontextulalisation(脈絡変換)と命名」(78頁)。
小さな脈絡変換の例として、昨日演奏した同一の楽曲を、今日同じ時刻同じ場所で演奏するとしよう。一見すると同じに見える。しかし、そこには昨日の演奏を踏まえた修正や、技術や表現面での差異が生じ、今日の演奏に何かしらの変化が発生していると考えるのが自然だろう。
追記:これは、差異だけが類似した状態で、フーコーのいうシミュラークルなのではないのか。ウォーホルの『キャンベル・スープ缶』や『コカ・コーラ』のようなものである。これらは、類似したものが列挙されてるが、決して同一ではなく差異が存在している状態である。いずれにせよ、テクスト論から離れている気がする。
大きな脈絡変換の例として、ある楽曲が時間や場所、そして民族を超える場合があげられる。興味深い例として、滝廉太郎の《荒城の月》がある。日本人に馴染み深いこの楽曲は、中学校の唱歌用に作られた楽曲である。だが、日本から遠く離れたベルギーのシュヴトーニュ修道院では、なんと聖歌として歌われているのだ。また、普段私たちが耳にする《荒城の月》は、山田耕筰編曲であることも付け加えておく。
追記:テクストがコンテクストを継承する包含関係であることを忘れてはならない。
逆の事例として、バッハ《ミサ曲 ロ短調》をコンサートホールに聞きに行くことが考えられる。クリスチャンではない人がミサ曲を、それも教会ではなくコンサートホールで、それでもって演奏者は、神ではなく、私たち観客を楽しませるために演奏しているのだ。これらの事例から、テクストは同じでも、それを構成する要素(コンテンクスト)が異なっていることが分かったと思う。
さて、バッハといえはバロック後期の作曲家である。バロックから古典にかけて楽器や演奏法が発達する。しかし、実はそれら楽器や演奏法は現代と異なっていることが多いのである。そこで、現在では、「ピリオド奏法」と呼ばれる、当時の演奏法を再現したものがある。このように当時のコンテクストを再現するものも、脈絡変換に脈絡変換を重ねた結果だと言えるだろう。
追記:それは誰かの解釈をなぞっているだけではないのか。テクストとそれが生まれた背景の二つの要素を結合することは、テクスト理論から一番離れた行為に感じるが、どうだろうか。
あらためて
もしかすると、このレポートは、山口のいうテクストとコンテクストを誤読して書いたものかもしれない。そもそもテクスト理論の話ではないように感じる。なお、テクスト理論は、誤読もまた認めている。なぜならば、テクスト理論は、意味の決定不能性を体現したもので、それが誤読である、という断定を許さないからだ。しかし、私たちは、常に何かしらの決定を下しているではないか、決定不能にも拘らずだ。ここにテクスト理論の限界が見て取れる。つまり、決定不能だからどう解釈してもいいよね、までは正しいが、その後に待つのは「読み」の優劣である。
参考資料
- オースティン,ジョン・L『言語と行為』坂本百大訳、大修館書店、1978年
- バルト,ロラン『物語の構造分析』花輪光訳、みすず書房、1979年
- 山口修『応用音楽学』放送大学出版、2000年