296)救済の服従と破滅の反抗
ディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』(みすず書房、2020)をやっと読了した。エリボンの自伝でありながら社会決定論の抗いの物語でもある。帯に記された「労働者階級の出身であると明かすのは、ゲイであることを告白するより難しかった――。」の一文に心惹かれて買ったのだが、長らく積読になっていた。
書評はしないが、ぼくの胸に刺さる文が沢山あったので、その中からいくつか紹介したい。
引用文の最後の節「抵抗は破滅であり、服従が救済だった。」という言葉は、ぼくがずっと言語化できなかった言葉だ。いや、しなかった、が正しい。なぜなら、ぼくが破滅を自ら選択したことになるからだ。
いや、違う。社会によって破滅を選択するよう仕向けられたのだ。確かに、今のぼくは破滅を選択した/させられた過去から一続きで存在している。それをエリボンは、イヴ・コゾフスキー・セジウィックを援用し次のように述べている。
もし子供のころにまともな教育を受けることができれば、言い換えて、ぼくにとって適切な居場所があれば、もっとよい人生を送れていたのではないか、と強く思ってしまう。だが、それではあまりにも世界が狭い。破滅を選択した/させられたぼくしかできないこともあるはずだ。このベルクソン的な一文は、自分の過去を無効化してはならない(できない)こと、そして未来の可能性を表している。
2023-12-31