275)オートガイネフィリアについて
ラカン派精神分析において、オートガイネフィリアは、性転換症の一つ「オートガイネフィリア転換症」で、それは女(=男ではないもの)になることを駆り立てた結果である。
脇坂唯の研究発表を聞きに行った。脇坂は、フランスの精神分析家ジャック・ラカンの在野研究者で、また古くからの友人でもある。
研究の発表内容は7/10と8/8の2回に分けて開催された。第1回では彼女がGID学会より出版した査読付き論文「ラカン派精神分析における性転換症とトランスジェンダーの理解」を解説し、第2回ではラカン派の理論が今起きている問題(論争)に対してどのように関係するのかについて語られた。基礎編と応用編と言い換えてもいいかも知れない。
今回のブログでは、第2回で語られた「オートガイネフィリア」というものを掻い摘んで取り上げる。オートガイネフィリアを表面的な現象で述べるなら、男性が女性化(女装・空想)することで性的な興奮を得ることだ。ネットでは、トランスジェンダーを攻撃するための武器にされている言葉である。
脇坂は、オートガイネフィリアが、その字面とそこから推測される「なんなとくの意味」だけが独り歩きしていおり、理解されないまま使われているという(日本語訳の「自己女性化性愛」(DSM-IV-TR)や「自己女性化愛好症」(DSM5)もよく無さそうだ)。そして、そこには二つの問題があるという。一つは、前述したトランスヘイターの武器として使われてしまうこと。他方は、オートガイネフィリアを経験したトランスジェンダーは少なくないのではないか、というものだ。
さて、オートガイネフィリア(Autogynephilia)をWikipediaで確認すると、「各種「女性化」によって性的興奮する性的嗜好。性的倒錯の一種。」と書かれている。また、参考文献としてリンクが貼られているGID学会理事の針間克己「トランスジェンダーに、偏った性嗜好である「オートガイネフィリア」は含まれるのか」では、「性自認ではなく「性嗜好」に特徴のある、オートガイネフィリアが混じっているのはおかしい感じがします。」と言い切っている。つまり、オートガイネフィリアは性嗜好の一つであり、性自認とは関係がないとされており、これに脇坂は意義を唱える。
前述したようなオートガイネフィリアの認識に至る経緯については、頒布された冊子の「4.1.6 松浦大悟と針間克己による論争」(47-48頁)に記述されている。そして、このような認識に対しブランチャードやローレンスを援用して次のように反論する。
- オートガイネフィリアは、男性から女性への性転換症の原因の一つを示すものであり、トランスジェンダーにオートガイネフィリアが含まれるかどうか、という問い自体が違りである。
- 性嗜好と性指向の積が存在し、さらに性指向から性自認(性同一性)が形成されるという理論が前提にある。この前提を踏まえずに、性自認、性指向、性表現、性嗜好、を独立した要素とみなしてオートガイネフィリアを議論することは、その意味(オートガイネフィリア)を歪めている。
前述したローレンスやブランチャード、その師匠であるフロイントは、オートガイネフィリアの性指向(恋・性の対象)の成立について、以下のような傾向を見出した(48-52頁)。
- 女性化による性的興奮を繰り返すことで、性的興奮なしでも女性の性同一性が固定されること
- マゾヒズム的な強制女性化
- 肢体の切断といった受け入れがたいパラフィリア的空想の代替
- 生得的女性が「性的に挑発的な服を着て興奮すること」と「女性化することを考えただけで興奮すること」は別のものであること
- 性指向こそが生得的であり、性自認(性同一性)はそこから派生するもの
脇坂は、ブランチャード=ローレンスの研究を評価する一方で、オートガイネフィリア者以外の性指向者、つまり異性愛の男・女性、同性愛的性転換症者の性指向の成立過程が抜けているという。どういうことかというと、ブランチャード=ローレンスは、性指向を生得的なもであり、そこから性自認が派生してくると考えた。しかし、ローレンスのパラフィリア的空想は、女になる(性自認)、という空想に先立って存在しているという。つまり、性指向から性自認の関係が成立せず、そこに二律背反が見られるのだ。
オートガイネフィリアをラカン派の(精神病であるという)観点から再構築しなおすと、「ラカン派精神分析で精神病に現れると考えられている、女=なるもの=への=駆り立ての結果」であり、出生児の身体的性別と逆の性自認をもつ、性転換症の症状の一つ、オートガイネフィリア的性転換症であるという。
どういうことかというと、女性化を強制するマゾヒズム的空想の中に、女性化を強制する「何者」か存在するという(執行者あるいは迫害者)。続けて、オートガイネフィリア者が目指しているのが「ただの女」ではなく〈女なるもの〉であるという。
〈女なるもの〉についてぼくが説明する。ラカンは、「女性は存在しない」と定義している。どういうことかというと、男性はファルス(象徴的なペニス)を持つ存在と定義できる。しかし、女性には一般化できる象徴をもっておらず、そのため「男性ではないもの」と、補集合的にしか定義できないという。つまり、部分集合で女性を表現できないから、女性は存在しない、といっている。これが〈女なるもの〉だと思う。
文章の分量が想像の数倍になってしまい、とりとめがなくなってしまった。最後に聴衆の一人であるぼくがオートガイネフィリアをまとめて終わりたい。そして、それは冒頭にて示した。
2023-08-05